翌朝―――出社した翔は、先に仕事を始めていた琢磨に声をかけた。「おはよう、琢磨」「おはよう翔。お? 今日も朱莉さんが編んだマフラーしてきたんだな?」琢磨は顔を上げると、翔の首もとを見て目を細めた。「ああ。朱莉さんがせっかく編んでくれたマフラーだからな」「そうか。別に明日香ちゃんはそのマフラーをしても何も言わないんだろう?」琢磨は何所か面白そうに尋ねた。「そうだな。黙って見ているよ」「ククク……そりゃ何も文句言えるはずないよなあ? だって翔には自分がそのマフラーを編んだと説明しているんだからな」肩を震わせながら笑う琢磨。「まあ、そう言ってくれるなよ、琢磨。多分明日香は俺がこのマフラーを使っている姿を見るのは辛いはずなのに我慢しているんだから」翔の言葉に琢磨は肩をすくめた。「全く……またそうやってすぐお前は明日香ちゃんの肩を持つんだからな。俺には理解できないよ。そりゃ明日香ちゃんは美人かもしれないが、性格が強すぎる」「明日香がああなったのは仕方が無い。自分の立場を必死で守る為に虚勢を張らざるを得なかったんだから。お前だって知ってるだろう? 元の明日香はあんな性格じゃなかったことくらい」「……」琢磨は翔の話を黙って聞いていたが、やがて言った。「翔、今日の仕事のスケジュールを説明するぞ……」その後、翔と琢磨は仕事モードに切り替えた――**** 11時――朱莉はマロンを連れてドッグランへとやって来ていた。昨日知り合ったばかりの京極と約束をしていたからである。「朱莉さん! こっちです!」ドッグランへ着くと、もうすでに京極は到着しており、飼い犬をドッグランで遊ばせていた。「こんにちは。遅くなってすみません。まさかもういらしているとは思わなくて…」遅れてしまったことを京極に詫びた。「ハハハ……別にいいんですよ。何せ僕よりもショコラの方が早く遊びに来たがっていたので」京極は自分の飼い犬を抱き上げた。「ショコラ?」朱莉が首を傾げると、京極は笑みを浮かべた。「ああ。すみません。この犬の名前ですよ」京極は犬の頭を撫でた。ショコラは今にも尻尾がちぎれてしまうのではないかと思われるくらい激しく尻尾を振って喜んでいる。「すごい偶然だと思いませんか? 朱莉さんの犬の名前がマロンで僕の犬の名前がショコラなんて。美味しそうなスイーツの
少しの間、2人の間に沈黙が流れたが、先に口火を切ったのは京極の方だった。「朱莉さん、犬を飼うのは慣れているんですか?」「いいえ、つい最近飼い始めたばかりなんです」するとその言葉に驚いたのか京極が目を見開いて朱莉を見た。「ええ? そうだったんですか? てっきり朱莉さんは犬を飼うのが慣れている方だと思っていましたよ」「何故そう思ったのですか?」「それはマロンを見てみれば分かりますよ。とても手入れが行き届いている。愛情が無ければあそこまで綺麗に毛並みを整える事なんて出来ませんよ。マロンはとても大事にされてるんですね」大事に……本当にそうなのだろうか? 本当に大事なら、どんなに明日香に攻め立てられても身体を張ってでもマロンを守り抜くのが真の愛情なのではないだろうか?「私はそれほど立派な飼い主ではありませんよ……」今にも消え入りそうな声だった。京極は少しの間、沈黙してたがやがて口を開いた。「僕は最初ここに引っ越してきた当時……本当はここに住む人達とは誰とも交流を持つまいと思っていたんですよ」どこか遠いところを見るように京極は言った。「僕はシングルマザーの母の元で貧しい環境で育ってきたんです。僕の親戚は金持ちが多かったけれども、周囲の反対を押し切って結婚した母のことを良く思っていなかった。早くに亡くなった父は貧しい画家だったのでね。お金が無くて苦しい生活だったけど、誰も援助はしてくれなかった。皆お金持ちだったのに」京極は一体何を言いたいのだろう? 朱莉は黙って話を聞いていた。「だから、僕は必至で勉強を頑張って……いつかお金持ちになって彼らを見返してやろうと思っていた。そして僕が成功するとそれまで見向きもしなかった親戚たちが僕の元に集まるようになったんですよ。結局、金持ちは金持ちとしか付き合いたくないってことなんですよね」そこで一度京極は言葉を切ると再び続けた。「だからここに越してきた時も誰とも交流を持つのはやめようと思っていたんです。実際ここに住む人達は皆お高く留まった人間たちばかりだったから。でもそんな時、朱莉さん。貴女を見かけたんです」京極はじっと朱莉を見つめた。「私を……?」「ええ、貴女はここで働くフロントのスタッフ達に丁寧に頭を下げ、いつもお世話になっていますと声をかけてました」確かに言われてみればそうだったかもしれない。で
「あ、あの……実は……」朱莉が京極に話そうとした時。「あら? 朱莉さんじゃないの? 何してるのこんな所で……ってああ。そこはドッグランだったのね」買物でもしてきたのだろうか? 全身ブランド物で身を固めた明日香がブランドのロゴマークが入った紙バックを持って立っていた。「あ、明日香さん。こ、こんにちは」朱莉は緊張の面持ちで明日香に挨拶をした。「それで? 新しい飼い主は見つかったのかしら?」明日香は朱莉の隣に京極が座っているのもお構いなしに話しかけてくる。「え……?」それを聞いた京極が小さく口の中で呟くのを朱莉は聞いてしまった。一気に朱莉の緊張が高まる。(どうしよう……。私から説明する前に京極さんに犬を手放すことがばれてしまった……!)一瞬朱莉は目を伏せ、唇をギュッと噛み締めた。そしてそんな朱莉を意地悪い笑みを浮かべて見つめる明日香。「ところで朱莉さん。御隣にいる方はどなたかしら?」明日香の問いかけに朱莉は一瞬ビクリと肩を震わせたが、すぐに答えた。「あ、あの……。この方は……」朱莉が言いかけると、京極が口を開いた。「いえ、僕から説明しますよ。初めまして、京極正人と言います。つい最近こちらに引っ越してきました。鳴海さんとは昨日このドッグランで初めてお会いしました。偶然にも同じ犬種でして、互いの犬が仲良さげに遊んでいたので本日もこちらで一緒に遊ばせていたんです」鳴海……ここで京極は初めて朱莉のことを苗字で呼んだ。そのことに少しだけ驚き、京極の横顔を見上げた。もしかして、京極は朱莉と明日香の張り詰めた空気に何か気付いたのだろうか? 朱莉の心臓の鼓動が早まってきた。(どうか……どうか明日香さん……今日はもう見逃してください……!)しかし、明日香と朱莉の2人の世界で朱莉に優しかったことは一度も無かった。「そうですか。私は鳴海明日香と申します。彼女……朱莉さんは私の兄嫁なんですよ?」明日香はにっこり微笑みながら京極に言った。兄嫁……今迄一度も明日香は朱莉をそんな風に呼んだこと等無かったのに、京極の前で明日香は初めてその言葉を口にしたのだった。「!」京極の息を飲む気配が朱莉にも感じられた。別に内緒にしていたわけでは無いが、今の自分の置かれた環境を京極に伝えるのは惨めだった。それ程親しい関係でも無かったので、敢えて言う必要などは無いだろうと
オフィスで琢磨と打ち合わせをしていた時に、デスクに置いてあった翔のスマホから着信を知らせる音楽が鳴った。2人は何気にスマホを見ると、着信相手は明日香になっていた。「明日香……?」翔は首を傾げた。「明日香ちゃんからメッセージか? 珍しいこともあるもんだな……仕事中の時間は滅多にメッセージを送って来ることは無かったのに。緊急の用事なのかもしれないから見てみろよ」「あ、ああ……。悪いな、琢磨」翔はスマホを見つめ……眉を顰めた。「どうしたんだ? 翔」「い、いや……朱莉さんが……」「何? 朱莉さんがどうかしたのか?」「億ションにあるドッグランで……若い男性と親し気に話をしていたらしい……」「何だ、別にそれ位どうってこと無いだろう?」琢磨は背もたれに寄りかかった。「だが……明日香が朱莉さんはその男性に気があるように見えたって言ってきてるんだ。相手の男性もまんざらでもなさそうだったって……」(もしそれが本当なら俺はどうすればいい? 契約書には世間の目があるから浮気は絶対にしてはならないと書いてあるが……実際は朱莉さんに何一つそんなことを言う資格は俺に無いし……)本音を言えば翔は朱莉に恋愛だって自由にさせてあげたいと心の奥底では考えていた。だが……。「……翔。何を考えているんだ?」気付けば琢磨がじっと翔を見つめていた。「明日香は世間の目があるから朱莉さんに男性と2人きりにさせるような環境を作らないように言い聞かせろとメッセージに書いてあるんだが……」翔はスマホを握りしめた。「……朱莉さんの好きにさせておけよ」琢磨がポツリと言った。「え…… ?お前……今何て……」「だから、朱莉さんの好きにさせておけと言ってるんだ。俺達に朱莉さんに契約婚の間は恋愛禁止、男性と2人きりになるなって言える立場にあるのか? 確かに書類上はお前と朱莉さんは婚姻関係にあるが実際はそんなのまやかしじゃないか。世間を偽る為の偽装夫婦だろう!? お前はいいよ、翔。大好きな明日香ちゃんと2人きりで夫婦ごっこしているんだもんなあ? だが朱莉さんはどうだ? たった1人きりであの広い億ションに住んで、今はさらにマロンとも引き放されなくちゃならない立場に追いやられてる。恋愛の一つ位……自由にさせてやるべきだと俺は思うけどな!?」いつになく強い口調で話す琢磨に翔は唖然としていた。
――16時半朱莉は母親の面会に病院に来ていた。「朱莉、今日はどうしたの? 随分元気が無いようだけど……翔さんにマフラーを渡したらとても喜んでくれたってメッセージを送ってくれたじゃない。何か辛いことでもあったの? お母さんに話してくれないのかしら?」リンゴの皮を剥いていた朱莉は顔を上げて母の顔を見た。「え……とあの……」母に話したいことなら山ほどあった。だが、そのどれもが母には……いや、母だからこそ話せないことばかりだった。(だけど……これだけは話しておかないと……)朱莉はリンゴの皮を剥き終わり、楊枝を差して母に渡した。「う、うん……実はね……マロンを手放す事になったの」「え……? ええ!? ど、どうしてなの? 何かあったの?」「あ、あの……しょ、翔さんが実は動物アレルギーを持っている事が分かって、お医者さんから手放したほうがいいって言われたから……」朱莉は考えていた言い訳を口にした。「まあ……動物アレルギーを持っていたの? それはお気の毒ね……。それで手放すことになったのね?」洋子は朱莉の手を握り締めた。「それでマロンはどうするの? もう誰か引き取り手が見つかったの?」「うん。たまたま同じマンションに住む方が同じトイ・プードルを飼っていて、その人とはドッグランで知り合ったんだけど、事情を説明したら引き取ってくれるって言ってくれたから。それにたまにはマロンに合わせてくれるって言ってくれたし」「そうなの……? でも貴女がそれで良くても……マロンの気持ちは?」母に指摘されて、朱莉はその時初めてマロンの気持ちに気が付いた。「あ……」「マロンはもうすっかり朱莉になついているのでしょう? そこを別の人に引き取られて、貴女がマロンに会いに行ったらお別れする時にマロンはすごく悲しむんじゃないの?」確かに言われてみればそうかもしれない。自分の都合で勝手にマロンを手放すのだ。マロンはもうすっかり朱莉に懐いている。そこを突然京極の手に委ねるのだ。突然変わる環境……そして元の飼い主である朱莉が気まぐれに会いに来て、連れ帰ってあげない。(これはマロンにとっては残酷なことかもしれないんだ……)「それじゃ……私はもう……マロンには会わない方がいいかもね……?」朱莉は母の前なので泣きたい気持ちをぐっとこらえる。「そうね……。貴女には酷な話しかもし
――21時「フウ……」マンションに帰宅した琢磨はネクタイを緩めると、テーブルの上にスマホを置いたとき、着信が届いている事に気付いた。着信相手は朱莉からだった。「朱莉さん……? ひょっとするとマロンの件なのか?」『こんばんは。いつもお世話になっております。明日はバレンタインですよね? 九条さんに日頃のお礼としてバレンタインプレゼントを用意させていただいたので、お渡ししたいのですが、どのように渡せばよろしいでしょうか? 住所を教えていただければ少し遅れてしまいますが郵送も考えております』「へえ……。朱莉さんが俺にもねえ……」琢磨はメッセージに目を通し、すぐに朱莉に電話を入れると3コール目で朱莉が電話に出た。『はい、もしもし』「こんばんは。九条です。今メッセージを読みました。ありがとうございます。私にバレンタインプレゼントを用意してくださったそうですね?」『はい。でもどうやってお渡しすればよいか分からなくて……すみません。メッセージを送ってしまいました』受話器越しから朱莉の戸惑った声が聞こえてきた。「あの、もしよろしければこれからプレゼントをいただきにそちらへ伺ってもよろしいですか?」『え!? い、今からですか?』「はい。実は明日は出張で東京にはいないんですよ。なので出来れば今日頂けたらなと思いまして。今から30分程で伺えますので。受け取ったらすぐに帰りますから……如何でしょうか?」『分かりました、ではお待ちしております』琢磨は電話を切ると、すぐに車のキーを取り、再び家を出た。本人は気付いてはいなかったが……その顔には笑みが浮かんでいた。30分後――琢磨が億ションの正面玄関に車を止めた時には、すでに朱莉が上着を着て外で待っていた。「あ……朱莉さん! こんな寒空の下、待っていたのですか!?」琢磨は車から降りると驚いて駆け寄った。「大丈夫ですよ。それ程長く待っていませんでしたから」朱莉は白い息を吐きながら笑顔で答え、琢磨に紙バックを手渡した。「あの……どんなのが良いか分からなくて九条さんはお酒が好きそうなイメージがあったので、アルコール入りのチョコレートを選んでみました。どうぞ受け取って下さい」「……どうもありがとうございます」琢磨は深々と頭を下げて朱莉から紙バックを受け取った。「あ、そう言えば九条さんにご報告があるんです」
――2月14日「翔、知っていたか?朱莉さんがマロンの引き取り手を見つけたっていう話」琢磨は出社して来た翔に話しかけた。「いや、初耳だ。そうか、決まったのか」返事をする翔に元気は無い。「翔、本当はお前マロンのこと、可愛いと思っていたんだろう? 出来ればずっと朱莉さんに飼い主になっていて貰いたいと考えていたんじゃないのか?」「そうだな。それが朱莉さんの幸せだと思っていたから」翔は上着を脱ぎ、コートをハンガーにかけた。「朱莉さんの幸せ? マロンを飼うことだけが朱莉さんの幸せだと思っているのか?」琢磨はイライラした口調で翔に文句を言う。「琢磨……今日のお前、どうしたんだ? 何だか機嫌が悪そうに見えるぞ?」「機嫌か……。確かにあまり良くはないかもな。悪かった。お前に当たるような言い方をして」琢磨は視線を落とすとPCに再び目を向けた。(どうしたんだ? 昨夜何かあったのか? いや、それ以前に琢磨はどうやって朱莉さんからマロンの引き取り手の事を聞いたんだ?)しかし、翔は琢磨にその事を尋ねる事は無かった。元々朱莉と琢磨は自分と朱莉の連絡事項を伝達する為に個人的にメッセージのやり取りをする仲なのだから、恐らく朱莉から連絡が入ったのだろう……と自分の中で考えをまとめてしまった。その後、暫く2人は無言で仕事をこなし、部屋にはPCのキーボードを叩く音だけが響き渡った――****――午前11時朱莉はドッグランでマロンを伴い、京極と待ち合わせをしていた。朱莉の傍らにはマロン愛用のグッズがキャリーバックの中に沢山入っている。マロンはすでにドッグランの中で楽し気に走り回っていた。そんな姿を朱莉は悲し気に見つめている。その時。「お待たせいたしました、朱莉さん」背後から不意に声をかけられて振り向くと、ショコラを腕に抱いた京極が立っていた。「あ……こ、こんにちは。京極さん」朱莉は立ち上がると頭を下げ、京極の連れているショコラを見ると目を細めた。「ショコラちゃんもこんにちは」「ほら、ショコラ。マロンちゃんと遊んでおいで」京極は腕に抱いたショコラを地面に降ろすと、ショコラは嬉しそうにマロンに向かって走って行った。その様子を見ると、朱莉に声をかけた。「それでは座って話しをしませんか?」「はい」朱莉は促され、再びベンチに腰を下ろすと、京極も席を1つ分空け
昨日のことだった。京極は朱莉の境遇について、一切尋ねることはしなかった。ただ、尋ねたのはマロンのことについてのみだった。そこで朱莉は咄嗟に母と同じ嘘を京極についてしまったのだ。夫が実は動物アレルギーで、マロンを飼うことが出来なくなってしまったと。そして義理の妹である明日香に言われてマロンを手放さなくなってしまったことを京極に説明したのだった。京極は最後まで黙って朱莉の話を聞き終えると「それなら僕がマロンを引き取りますよ」と言ったのだった――「それでは残りの荷物の件ですが明日またドッグランでお会いしませんか? マロンを連れて行きますので、会って行けばいいじゃないですか?」京極は笑顔で言ったが、朱莉は首を振った。「いいえ……。マロンに会うのは今日で最後にします」「え? 何故ですか?」京極は信じられないと言わんばかりの目つきで朱莉を見つめる。「病気で入院している母に言われたんです。自分の都合でマロンを手放すのに、会いに行くのはあまりにも勝手な行動なのでは無いかって。マロンは嬉しいことに、すごく私に懐いてくれています。でもきっと私が突然いなくなったらすごく悲しむと思うんです。それなのに会いに行けば、きっと私の元へマロンが帰りたがると思うんです。そうしたら京極さんに迷惑をかけてしまいます。ですから……」後の台詞は言葉にならなかった。朱莉は涙が出そうになるのを必死で堪えて俯いた。「分かりました……」京極はメモ帳とペンを取り出すと、スラスラと何かを書いて朱莉に手渡してきた。「これをどうぞ」「あの……これは……?」朱莉はメモ紙を受け取ると尋ねた。「これは僕の自宅の部屋番号です。在宅勤務で殆ど自宅にいますのでいつでもマロンの荷物を運んできていただいて大丈夫ですよ。あ、でも来る前に一度連絡を入れて貰ったほうがいいかな? 僕は部屋の中でもサークルに入れないで放し飼いをしているので、貴女の匂いに気付いてマロンが飛び出して来るかもしれないですからね。玄関の外で荷物を受け取りますよ」「はい、何から何までありがとうございます。それではマロンをよろしくお願いします」朱莉は立ち上がった。「朱莉さん。最後に……マロンを抱いていかなくていいんですか?」「いいんです……。だ、だって……マロンを抱いてしまったら別れがたくなってしまうから……」朱莉は泣くのを必死で堪え
17時――「ふう~疲れた……」朱莉は億ションへ帰って来ると、部屋の窓を開けて換気をするとソファの上に座った。「今日は疲れちゃったからご飯作るのはやめよう。東京へ戻って来た記念に思いきってどこかに食事に行ってみようかな……?」朱莉の本心を言えば、航に連絡を入れて2人で何処かで待ち合わせをしたかった。一緒にお店に入り、そこでお土産のTシャツを手渡して、食事が出来ればと願っていた。だが……突然航は東京へ戻り、そこからは一切連絡が来なくなってしまったのだ。航の性格からみて、それはとても考えられないことだった。(航君は、ひょっとすると京極さんに私との連絡を絶つように言われていたのかもしれない……)何故京極がそこまでのことをするのか、朱莉には見当がつかなかった。航に会えないことを思うと悲しい気持ちが込み上げてくる。それだけ朱莉にとって、航は大きな存在だったのだ。だが朱莉は航にも京極にも理由を尋ねる勇気が無かった。暫くソファに寄りかかり、ぼ~っと天井を見上げていると突然朱莉の個人用スマホの電話が鳴り始めた。(まさか、京極さん!?)慌ててスマホを取り出すと、それは母からの電話だった。「はい、もしもし」『ああ、朱莉。今日は私から電話を入れてみようかと思ったのだけど……今忙しいの?』受話器からは意外と元気そうな母の声が聞こえてきた。「ううん、そんな事無いよ。あ、そうだお母さん。実は今まで黙っていたけど私今日東京に戻って来たんだよ?」『え!? そうだったの!? びっくりだわ……。どうして今まで今日東京へ戻ることを教えてくれなかったの?』母はやはり朱莉が考えていたのと同じ事を尋ねてきた。「うん、ごめんなさい。はっきりいつ頃東京へ戻るか日程が決まっていなかったから言えなかったの。それでね、明日お見舞いに行こうと思ってるの。沖縄で綺麗な琉球ガラスの花瓶を買ってきたから、明日持ってお見舞いに行くね?」『ありがとう、朱莉。フフフ……久しぶりに貴女に会えると思うと嬉しいわ』「うん。お母さん。私も楽しみにしてるね。それじゃまた明日」朱莉は電話を切ると、部屋が肌寒くなっていたことに気づいて部屋の窓を閉めた。いつの間にか部屋の中はすっかり薄暗くなっていたので、遮光カーテンを閉めると部屋の電気をつけた。 信じられないくらいの広すぎる部屋。今まではこの部屋で
11月1日午前8時―― 今日は朱莉が東京へ戻る日である。当初の予定では明日香達が日本へ戻って来る日に合わせて東京へ戻るはずだった。しかし、新生児を迎えるにあたり、沖縄から発送したベビー用品を受け取って部屋を用意しておきたいと朱莉が姫宮にお願いをすると、すぐに姫宮は朱莉の提案を聞き入れてくれた。(きっと翔先輩にお願いしても断られていたかも。姫宮さんにお願いしておいて良かった)ただし、翔からは億ションに戻った後は子供を迎えるまでは極力目立たない行動を取るように念を押されている。 朱莉が梱包して発送したベビー用品はもう全て六本木に発送済みだ。今は必要としない朱莉の荷物も全てまとめて発送した。このマンションには家具・家電も含めて食器類も全て備え付けだったので、朱莉自身の発送した荷物は微々たるものであった。所有する車は既に数日前にフェリーで東京の方へ輸送手続きを済ませてある。明日には運転代行業の業者が億ションまで運んでくることになっていた。 朱莉が乗る飛行機の便は11時。那覇空港へ行くにあたり、モノレールを利用する予定であった。「早めに那覇空港へ行ってお土産屋さんでも見ていようかな……」朱莉は呟くと、部屋の掃除を始めた。今までお世話になって来た部屋なので念入りに掃除を始めた。夢中になって掃除をし、気が付いた時には9時半になっていた。「大変。もうこんな時間だ。早く出かける準備をしなくちゃ」着がえをし、簡単にメイクをすると最後に忘れ物が無いか部屋の中をざっと確認し、足元にいたネイビーを抱きあげた。「ネイビー、いよいよ東京へ帰るよ」そして暖かなネイビーの身体に顔を寄せた。 キャリーバックにネイビーを入れ、ショルダーバッグにキャリーケースを持って朱莉はマンションを出た。そして自分が今まで住んでいた部屋に向かってお辞儀をした。(今までお世話になりました)心の中で感謝の意を述べると、朱莉は那覇空港へ向かった——**** 朱莉は那覇空港へ向かるモノレールの中で物思いにふけっていた。実は一つ気がかりなことがあったのだ。それは京極に黙って沖縄を去ること。本来であれば京極は朱莉を追って沖縄へやって来たようなものなので、本日東京へ戻ることを告げるべきなのかもしれない。しかし、何故突然戻ることになったのか尋ねられた場合、朱莉は答えることが出来ない
1人の男が朱莉の住むマンションの前に立っていた。その男はぎらつく目で朱莉の住む部屋のベランダをじっと見上げている。その時――「……こんな所で一体何をしているんだ?」京極が男に声をかけた。「い、いや……お、俺は……」男は狼狽したように後ず去ると、背後から体格の良い背広姿の男が突然現れて男を羽交い絞めにした。捕らえられた男を京極は冷たい瞳で睨み付けた。「まだコソコソと嗅ぎまわる奴らが残っていたのか……」それは背筋がゾッとするような声だった。「は……離せ! うっ!」暴れる男を押さえつけている男性は男の腕を捻り上げた。京極は身動きが出来ない男に近付くと、肩から下げた鞄を取り上げて漁り始めた。中からデジカメを発見すると蓋を開けてメモリーカードを引き抜いた。「よ、よせ! 触るな! うっ!」さらに腕をねじ上げられて再び男は苦し気に呻いた。そんな男を京極は冷たい目で見つめると、次に名刺を探し出した。「やはりゴシップ誌に売りつけるフリーの三流記者か……。どこの誰に教えられたのかは知らないが余計な手出しはするな。もし下手な真似をするなら二度とこの業界で生きていけない様にしてやるぞ?」それは背筋がゾッとする程冷たく、恐ろしい声だった。「だ、誰なんだよ……お前は……」「仮にもお前のような奴がこの業界で働いていれば名前くらいは聞いたことがあるだろう? 俺の名前は京極だ」「京極……ま、まさかあの京極正人か……!?」途端に男の顔は青ざめる。「そうか……やはり俺のことは知ってるんだな? 分かったら、二度と姿を見せるな。さもないと……」「ヒイッ! わ、分かった! もう二度とこんな真似はしない! た、頼む! 見逃してくれ!」「……どうしますか?」男の腕を締め上げていた男性は京極に尋ねた。「……離してやれ」男性が手を離すと、男はその場を逃げるように走り去って行った。その姿を見届けると男性は京極に尋ねた。「いつまでこんなことを続けるつもりですか?」「勿論彼女の契約婚が終了するまでだ」「しかし、それでは……」「今はまだ動けない。だが、最悪の場合は強引にこの契約婚を終わらせるように仕向けるつもりだ」その時、京極のスマホが鳴った。京極はその着信相手を見ると、一瞬目を見開き……電話に出た。「ああ……。教えてくれてありがとう。助かったよ……うん。早速
10月22日—— その日は突然訪れた。朱莉が洗濯物を干し終わって、部屋の中へ入ってきた時の事。翔との連絡用のスマホが部屋の中で鳴り響いていた。(まさか明日香さんが!?)すると着信相手は姫宮からであった。すぐにスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『朱莉さん、明日香さんが男の子を先程出産されました』「え? う、生まれたんですね!?」『はい、かなりの難産にはなりましたが、無事に出産することが出来ました。私は今副社長とアメリカにいます。副社長は日本に戻るのは10日後になりますが、私は一時的に日本へ帰国する予定です。朱莉さんはもう引っ越しの準備を始めておいて下さい。朱莉さんが今現在お住いの賃貸マンションの解約手続きは私が帰国後行いますので、そのままにしておいていただいて大丈夫です。それではまた連絡いたします』姫宮からの電話はそこで切れた。(明日香さんがついに赤ちゃんを出産……そしてこれから私の子育てが始まるんだ……。それにしても難産って……明日香さん大丈夫なのかな……?)朱莉は明日香のことが心配になった。ただでさえ、情緒不安定で一時は薬を服用していたと聞く。回復の兆しがあり、薬をやめてから明日香は翔との子供を妊娠したが、その後は翔と姫宮の不倫疑惑が浮上。結局その件は航の調査で2人の間に不倫関係は認めらず、誤解だったことが分かったが明日香は難産で苦しんだ……。「明日香さん、元気な姿で日本に赤ちゃんと一緒に戻ってきて下さい」朱莉はそっと祈った。——その後朱莉は梱包用品を買い集めて来るとマンションへと戻り、買い集めていたベビー用品の梱包を始めた。一つ一つ手に取って荷造りを始めていると、自然と琢磨や航のことが思い出されてきた。「あ……このベビードレスは確か九条さんと一緒に買いに行ったんだっけ。そしてこれは航君と一緒に買った哺乳瓶だ……」朱莉の胸に懐かしさが込み上げてくる。(あの時は誰かが側にいてくれたから寂しく無かったけど……)だが、いつだって朱莉が一番傍にいて欲しいと願っていた翔の姿はそこには無い。翔と2人で過ごした日々は片手で数えるほどしか無かった。むしろ、冷たい視線や言葉を投げつけらる数の方が多かったのだ。(でも……翔先輩。私が明日香さんの赤ちゃんを育てるようになれば少しは私のこと、少しは意識してくれるかな……?)一度
観覧車を降りた後は、京極の誘いでカフェに入った。「朱莉さん。食事は済ませたのですか?」「はい。簡単にですが、サラダパスタを作って食べました」「そうですか、実は僕はまだ食事を済ませていないんです。すみませんがここで食事をとらせていただいても大丈夫ですか?」「そんな、私のこと等気にせず、お好きな物を召し上がって下さい」(まさか京極さんが食事を済ませていなかったなんて……)「ありがとうございます」京極はニコリと笑うと、クラブハウスサンドセットを注文し、朱莉はアイスキャラメルマキアートを注文した。注文を終えると京極が尋ねてきた。「朱莉さんは料理が好きなんですか?」「そうですね。嫌いではありません。好き? と聞かれても微妙なところなのですが」「微妙? 何故ですか?」「1人暮らしが長かったせいか料理を作って食べても、なんだか空しい感じがして。でも誰かの為に作る料理は好きですよ?」「そうですか……それなら航君と暮していた間は……」京極はそこまで言うと言葉を切った。「京極さん? どうしましたか?」「いえ。何でもありません」 その後、2人の前に注文したメニューが届き、京極はクラブハウスサンドセットを食べ、朱莉はアイスキャラメルマキアートを飲みながら、マロンやネイビーの会話を重ねた——**** 帰りの車の中、京極が朱莉に礼を述べてきた。「朱莉さん、今夜は突然の誘いだったのにお付き合いいただいて本当にありがとうございました」「いえ。そんなお礼を言われる程ではありませんから」「ですがこの先多分朱莉さんが自由に行動できる時間は……当分先になるでしょうからね」何処か意味深な言い方をされて、朱莉は京極を見た。「え……? 今のは一体どういう意味ですか?」「別に、言葉通りの意味ですよ。今でも貴女は自分の時間を犠牲にしているのに、これからはより一層自分の時間を犠牲にしなければならなくなるのだから」京極はハンドルを握りながら、真っすぐ前を向いている。(え……? 京極さんは一体何を言おうとしているの?)朱莉は京極の言葉の続きを聞くのが怖かった。出来ればもうこれ以上この話はしないで貰いたいと思った。「京極さん、私は……」たまらず言いかけた時、京極が口を開いた。「まあ。それを言えば……僕も人のことは言えませんけどね」「え?」「来月には東京へ戻
朱莉が航のことを思い出していると、運転していた京極が話しかけてきた。「朱莉さん、何か考えごとですか?」「いえ。そんなことはありません」朱莉は慌てて返事をする。「ひょっとすると……安西君のことですか?」「え? 何故そのことを……?」いきなり確信を突かれて朱莉は驚いた。するとその様子を見た京極が静かに笑い出す。「ハハハ……。やっぱり朱莉さんは素直で分かりやすい女性ですね。すぐに思っていることが顔に出てしまう」「そ、そんなに私って分かりやすいですか?」「ええ。そうですね、とても分かりやすいです。それで朱莉さんにとって彼はどんな存在だったのですか? よろしければ教えてください」京極の横顔は真剣だった。「航君は私にとって……家族みたいな人でした……」朱莉は考えながら言葉を紡ぐ。「家族……? 家族と言っても色々ありますけど? 例えば親子だったり、姉弟だったり……もしくは夫婦だったり……」最期の言葉は何処か思わせぶりな話し方に朱莉は感じられたが、自分の気持ちを素直に答えた。「航君は、私にとって大切な弟のような存在でした」するとそれを聞いた京極は苦笑した。「弟ですか……それを知ったら彼はどんな気持ちになるでしょうね?」「航君にはもうその話はしていますけど?」朱莉の言葉に京極は驚いた様子を見せた。「そうなのですか? でも安西君は本当にいい青年だと思いますよ。多少口が悪いのが玉に傷ですが、正義感の溢れる素晴らしい若者だと思います。社員に雇うなら彼のような青年がいいですね」朱莉はその話をじっと聞いていた。(そうか……京極さんは航君のことを高く評価していたんだ……)その後、2人は車内で美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに着くまでの間、航の話ばかりすることになった——****「どうですか? 朱莉さん。夜のアメリカンビレッジは?」ライトアップされた街を2人で並んで歩きながら京極が尋ねてきた。「はい、夜は又雰囲気が変わってすごく素敵な場所ですね」「ええ。本当にオフィスから見えるここの夜景は最高ですよ。社員達も皆喜んでいます。お陰で残業する社員が増えてしまいましたよ」「ええ? そうなんですか?」「そうですよ。あ、朱莉さん。観覧車乗り場に着きましたよ?」2人は夜の観覧車に乗り込んだ。観覧車から見下ろす景色は最高だった。ムードたっ
その日の夜のことだった。朱莉の個人用スマホに突然電話がかかって来た。相手は京極からであった。(え? 京極さん……? いつもならメールをしてくるのに、電話なんて珍しいな……)正直に言えば、未だに京極の事は姫宮の件や航の件で朱莉はわだかまりを持っている。出来れば電話では無く、メールでやり取りをしたいところだが、かかってきた以上は出ないわけにはいかない。「はい、もしもし」『こんばんは、朱莉さん。今何をしていたのですか?』「え? い、今ですか? ネットの動画を観ていましたが?」朱莉が観ていた動画がは新生児のお世話の仕方について分かり易く説明している動画であった。『そうですか、ではさほど忙しくないってことですよね?』「え、ええ……まあそういうことになるかもしれませんが……?」一体何を言い出すのかと、ドキドキしながら返事をする。『朱莉さん。これから一緒にドライブにでも行きませんか?』「え? ド、ドライブですか?」京極の突然の申し出に朱莉はうろたえてしまった。今まで一度も夜のドライブの誘いを受けたことが無かったからだ。(京極さん……何故突然……?)しかし、他ならぬ京極の頼みだ。断るわけにはいかない。「わ、分かりました。ではどうすればよろしいですか?」『今から30分くらいでそちらに行けると思いますので、マンションのエントランスの前で待っていて頂けますか?』「はい。分かりました」『それではまた後程』用件だけ告げると京極は電話を切った。朱莉は溜息をつくと思った。(本当は何か大切な話が合って、私をドライブに誘ったのかな……?)****30分後――朱莉がエントランスの前に行くと、そこにはもう京極の姿があった。「すみません、お待たせしてしまって」「いえ、僕もつい先ほど着いたばかりなんです。だから気にしないで下さい。さ、では朱莉さん。乗って下さい」京極は助手席のドアを開けるた。「は、はい。失礼します」朱莉が乗り込むと京極はすぐにドアを閉め、自分も運転席に座る。「朱莉さん、夜に出かけたことはありますか?」「いいえ、滅多にありません」「では美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに行きましょう。夜はそれはとても美しい景色に変わりますよ? 一緒に観覧車に乗りましょう」「観覧車……」その時、朱莉は航のことを思い出した。航は観覧車に乗
数か月の時が流れ、季節は10月になっていた。カレンダーの3週目には赤いラインが引かれている。そのカレンダーを見ながら朱莉は呟いた。「予定通りなら来週明日香さんの赤ちゃんが生まれてくるのね…」まだまだこの季節、沖縄の日中は暑さが残るが、夏の空とは比べ、少し空が高くなっていた。琢磨とも航とも音信不通状態が続いてはいたが、今は寂しさを感じる余裕が無くなってきていた。翔からは頻繁に連絡が届くようになり、出産後のスケジュールの取り決めが色々行われた。一応予定では出産後10日間はアメリカで過ごし、その後日本に戻って来る事になる。朱莉はその際、成田空港まで迎えに行き、六本木のマンションへと明日香の子供と一緒に戻る予定だ。「お母さん……」 朱莉は結局母には何も伝えられないまま、ズルズルここまできてしまったことに心を痛めていた。どうすれば良いのか分からず、誰にも相談せずにここまで来てしまったことを激しく後悔している。そして朱莉が出した結論は……『母に黙っていること』だった。あれから少し取り決めが変更になり、朱莉と翔の婚姻期間は子供が3歳になった月に離婚が決定している。(明日香さんの子供が3歳になったら今までお世話してきた子供とお別れ。そして翔先輩とも無関係に……)3年後を思うだけで、朱莉は切ない気持ちになってくるが、これは始めから決めらていたこと。今更覆す事は出来ないのだ。現在朱莉は通信教育の勉強と、新生児の育て方についてネットや本で勉強している真っ最中だった。生真面目な朱莉はネット通販で沐浴の練習もできる赤ちゃん人形を購入し、沐浴の練習や抱き方の練習をしていたのだ。(本当は助産師さん達にお世話の仕方を習いに行きたいところなんだけど……)だが、自分で産んだ子供ではないので、助産師さんに頼む事は不可能。(せめて私にもっと友人がいたらな……誰かしら結婚して赤ちゃんを産んでる人がいて、教えて貰う事ができたかもしれないのに……)しかし、そんなことを言っても始まらない。そして今日も朱莉は本やネット動画などを駆使し、申請時のお世話の仕方を勉強するのであった――**** 東京——六本木のオフィスにて「翔さん、病院から連絡が入っております。まだ出産の兆候は見られないとのことですので、予定通り来週アメリカに行けば恐らく大丈夫でしょう」姫宮が書類を翔に手
「ただいま……」玄関を開け、朱莉は誰もいないマンションに帰って来た。日は大分傾き、部屋の中が茜色に代わっている。朱莉はだれも使う人がいなくなった、航が使用していた部屋の扉を開けた。綺麗に片付けられた部屋は、恐らく航が帰り際に掃除をしていったのだろう。航がいなくなり、朱莉の胸の中にはポカリと大きな穴が空いてしまったように感じられた。しんと静まり返る部屋の中では時折、ネイビーがゲージの中で遊んでいる気配が聞こえてくる。目を閉じると「朱莉」と航の声が聞こえてくるような気がする。朱莉の側にいた琢磨は突然音信不通になってしまい、航も沖縄を去って行ってしまった。朱莉が好きな翔はあの冷たいメール以来、連絡が途絶えてしまっている。肝心の京極は……朱莉の側にいるけれども心が読めず、一番近くにいるはずなのに何故か一番遠くの存在に感じてしまう。「航君……。もう少し……側にいて欲しかったな……」朱莉はすすり泣きながら、いつまでも部屋に居続けた——**** 季節はいつの間にか7月へと変わっていた。夏休みに入る前でありながら、沖縄には多くの観光客が訪れ、人々でどこも溢れかえっていた。京極の方も沖縄のオフィスが開設されたので、今は日々忙しく飛び回っている様だった。定期的にメッセージは送られてきたりはするが、あの日以来朱莉は京極とは会ってはいなかった。航が去って行った当初の朱莉はまるで半分抜け殻のような状態になってはいたが、徐々に航のいない生活が慣れて、ようやく今迄通りの日常に戻りつつあった。 そして今、朱莉は国際通りの雑貨店へ買い物に来ていた。「どんな絵葉書がいいかな~」今日は母に手紙を書く為に、ポスカードを買いに来ていたのだ。「あ、これなんかいいかも」朱莉が手に取った絵葉書は沖縄の離島を写したポストカードだった。美しいエメラルドグリーンの海のポストカードはどれも素晴らしく、特に気に入った島は『久米島』にある無人島『はての浜』であった。白い砂浜が細長く続いている航空写真はまるでこの世の物とは思えないほど素晴らしく思えた。「素敵な場所……」朱莉はそこに行ってみたくなった。 その夜――朱莉はネイビーを膝に抱き、ネットで『久米島』について調べていた。「へえ~飛行機で沖縄本島から30分位で行けちゃうんだ……。意外と近い島だったんだ……。行ってみたいけど、でも